第2次世界大戦中、旧日本軍がフィリピンで米軍捕虜らに強いた「バターン死の行進」の指揮責任を問われ、B級戦犯として銃殺刑に処された本間雅晴陸軍中将(佐渡市出身)が、処刑の数日前に
米陸軍大尉に宛てて書いた手紙が、佐渡市の佐渡博物館で初公開された。開戦に反対していた本間が日本政府や軍を批判しており、佐渡博物館では「戦争や軍事裁判に対する思いが赤裸々に
つづられた非常に貴重な資料。本間の人柄を感じ取ってほしい」としている。【写真】米軍大尉に宛てて英語で書かれた手紙
手紙は米陸軍のカーター大尉宛てで、便せん26枚に鉛筆を使い、英文で書かれている。大尉の遺族から1995年、外務省を通じて本間の遺族に返還された。遺族は公開せずに保管していたが、
佐渡博物館が戦後80年の節目での公開を依頼し、了承した。手紙の日付は、本間が処刑された46年4月3日の数日前の3月31日。佐渡博物館によると、カーター大尉は裁判にかけられることが決まった頃に接点を持ち、信頼を置いていた人物とみられる。
手紙には自身の経歴、日本政府や軍事裁判への批判や不満などがつづられている。「東条が 私の自由主義思想を嫌い、そのせいで私は陸軍での人生に終止符を打つこととなったのです」と
東条英機元首相との確執を明かし、「戦争の全時期を通して、私は3回この戦争を止めようとしました」と早期終結を願っていたことも記した。軍事裁判に対しては「自分に戦争犯罪者としての有罪判決がいとも簡単に下るとは思ってもいませんでした。なぜなら、私は自分自身に恥じることは何もなかったからです」と表明。
「私に課された責任の殆(ほとん)どは、少なくとも私が知らなかった事柄でした」と、判決に納得していない様子がうかがえる。「この地球上に正義といったものは存在しないという結論に達しました」という一文で締めくくられ、死を前にした深い失望がにじむ内容となっている。
佐渡博物館の本間裕徳(ゆうとく)学芸員は「手紙が遺族側に渡るのは珍しいケースだ。米軍の軍人宛てにしたからこそ、処分されずに残ったのではないか」と推測。「開戦反対派だった
本間の戦争や軍事裁判に対する思いが、ありのままにつづられている貴重な資料だ」と話している。 「バターン死の行進」B級戦犯・本間雅晴中将が処刑前に書いた手紙を初公開 東条英機元首相や裁判を批判…「地球上に正義は存在しない」深い失望にじむ【戦後80年】(新潟日報) - Yahoo!ニュース第2次世界大戦中、旧日本軍がフィリピンで米軍捕虜らに強いた「バターン死の行進」の指揮責任を問われ、B級戦犯として銃殺刑に処された本間雅晴陸軍中将(佐渡市出身)が、処刑の数日前に米陸軍大尉に宛てて書news.yahoo.co.jp
むしろ、精神の鍛錬になる
英仏租界を潰した人だから
米英仏に憎まれてたからな
丁稚上げで殺された感じ
あるのはムラ社会のみです
南京の国民党軍も同じく司令官だけが逃亡、一般兵士は督戦隊が逃げる兵士を射殺しまくってたな。鎖を足に着けられ銃座に固定されていた死体もあったそうだ。
マッカーサー家はフィリピンにぶっとい権益あったんだっけか
だから日本軍が逃がしたのがこの行進。
捕虜は手ぶらで近距離を歩いただけ。
荷物はぜんぶ日本軍が背負った。
大陸打通作戦のときは米軍は長沙を夜間無差別爆撃をした。日本軍が陥落させた後だったが入城せず城外で待機していた。だから犠牲者は市民のみ
ただ日本軍はすでにそれに必要な物資が無かった
捕虜を取るのに必要な物資が無い時は捕虜を処分しても良いって条約で決まってるんだから始末すれば良かったのにね
マトモに物資なんて補給出来るわけ無いだろ
バターン
八甲田山
捕虜は手ぶら、日本兵はフル装備の行軍で捕虜だけ死にまくった
完全に逆恨みの死刑
それに反発したのが反日ユダヤ人団体のなんとかタールw
勝手に記事英訳してうpしてたなぁ。
なんでユダヤがでてくるねん、とあの頃思ったものだw




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